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東京地方裁判所 昭和47年(ワ)9672号 判決 1975年10月06日

昭和四七年(ワ)第九六七二号事件

原告 松本とみ子

同 松本勝弥

昭和四八年(ワ)第一五六五号事件

同 梶谷敏夫

<ほか一四名>

原告ら訴訟代理人弁護士 斎藤一好

同 徳満春彦

同 丸山武

同訴訟復代理人弁護士 杉山悦子

昭和四七年(ワ)第九六七二号 昭和四八年(ワ)第一五六五号事件

被告 創価学会

右代表者代表役員 北条浩

右訴訟代理人弁護士 中根宏

同 松井一彦

同 奥野彦六

同 米田為次

主文

原告らの訴を却下する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し、それぞれ別紙寄附一覧表記載の寄付金額及びこれに対する昭和四〇年一〇月一三日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文と同旨。

2  予備的に

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求の原因

(一)  原告らは昭和四〇年一〇月当時、いずれも被告の会員であり、被告は「日蓮聖人の弘安二年一〇月一二日に御建立遊ばされた一閻浮提総与の御本尊」すなわち、俗称「板まんだら」を本尊とし、日蓮正宗の教義に基き本尊流布ならびに儀式行事を行ない、王仏冥合の理想実現のための業務を行なうこと等を目的として宗教法人法により設立された宗教法人である。

(二)  原告らは、被告が富士宮市所在の日蓮正宗総本山大石寺境内に、広宣流布達成の時期に、右本尊すなわち、俗称「板まんだら」を安置する「事の戒壇」たる正本堂を建立する資金として、それぞれ別紙寄付一覧表(以下別表という)記載の年月日に同記載の名義で、同記載の金額を供養金名義で寄付したものである。

なお被告は、右正本堂を「事の戒壇」と呼ぶほか、「事実上の事の戒壇」又は「実質的な事の戒壇」とも呼んでおり、右正本堂建立は広宣流布達成のときにあたり、「事実上の事の戒壇」又は「実質的な事の戒壇」とは、いずれも「事の戒壇」を意味するものであった。また、被告は正本堂を指して、「実質的な本門戒壇」、「事実上の本門戒壇」、「国立の戒壇」などとも呼んでいた。

(三)  しかし、右寄付行為は左の点で要素の錯誤があり、無効である。

すなわち、被告は原告ら会員に対し、昭和三九年五月頃、

(1) 本件寄付金は戒壇の本尊を安置するための正本堂建立の建設費用にあてることを目的とする。

(2) この正本堂建立は、広宣流布(日蓮の三大秘法の仏法が日本国中、さらに全世界に弘まること)達成の時期にあたる。と称して募金をしたものである。

原告らは右(1)(2)を信じて、出捐の要素として被告に寄付したところ、被告は前言を飜し、正本堂完工の昭和四七年、正本堂は未だ三大秘法抄の戒壇の完結ではなく、広宣流布は未だ達成されないと言明した。また、被告が正本堂に安置することになっている戒壇の本尊も、日蓮聖人が弘安二年一〇月一二日建立した一閻浮提総与の本尊であるいわゆる「板まんだら」であるとしてきたのに、右本尊は実際は偽物であった。

したがって、原告らのした寄付行為は、明示された出捐の目的たる重要な要素に錯誤があり無効である。

(四)  よって、原告らのした出捐は法律上の原因を欠くところ、被告は悪意の受益者である。

(五)(1)  仮りに以上の主張が認められないとしても、被告は、昭和三九年五月頃、被告の機関紙誌である「聖教新聞」、「大白蓮華」や会員の幹部座談会、正本堂建立御供養趣意書などにより、被告自身は板本尊が偽作であり、また昭和四〇年当時は広宣流布が達成しておらず、正本堂を建立しても到底「事の戒壇」たりえないことを知悉していたにもかかわらず、専ら数百億円の寄付金を集める目的をもって原告ら会員に対し、「このたび日蓮正宗総本山に正本堂が建立されることになった。正本堂には、日興嫡嫡相承の「まんだら」を本尊として安置する。正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である。総本山における大建築についての御供養は、これで最後の機会となる。千載一遇とはまさにこのことである(正本堂建立御供養趣意書より)」などと虚偽の事実を述べ、原告らをそのように誤信させ、また「戒壇の本尊建立の吉日である昭和四〇年一〇月一二日迄、同年同月九日より四日間をもって御供養に参加してほしい(同趣意書)。」、「御本仏、日蓮大聖人様の御遺命たる本門戒壇建立のため、広宣流布のため、正本堂建立に御供養申し上げ奉る大福運と大功徳は、釈尊在世中よりも、数千万億倍すぐれ、日蓮大聖人御在世中よりも、なお偉大(大白蓮華昭和四〇年一〇月号より)」であり、「一生一代の名誉ある御供養にさらにいちだんと励んでいこう(同年同号)」と、一生に一度の最後の御供養であることを強調して原告らが多額の寄付をするように仕向け、原告らをその旨誤信させ、原告らをして別表のとおり、それぞれ被告に対し金員を交付せしめた。

(2)  その後昭和四六年一一月頃から、原告らは被告が右正本堂に安置するという「一閻浮提総与の本尊(板本尊)」の真偽について、「日蓮聖人が弘安二年一〇月一二日建立した本尊ではない」との疑問を提起しこれにつき再三被告に説明を要求したが、被告は明確な解答を回避するばかりであり、原告ら自身の調査によっても右板本尊は偽物であることが確証されるに至った。さらにまた、被告は正本堂建立の意義についても昭和四七年一〇月一二日の正本堂の落成式の直前になり、同年一〇月初め頃から前言を翻し、被告の「聖教新聞」同年一〇月三日号その他において、「全民衆を救おうとの大聖人の精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって、正本堂は、なお未だ三大秘法抄一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」と公言するに至ったので、原告らは初めて被告に騙されて、本件寄付をさせられたことを知った。

(3)  よって、原告らの本件寄付は詐欺による意思表示によるものであるから、本訴(昭和五〇年四月二八日の口頭弁論期日)において、被告に対する原告らの右意思表示を取消す。

(六)(1)  仮りに前項の主張が理由がないとしても、原告らは被告から、昭和三九年五月頃、前項(1)記載のような被告の正本堂建立のため募金の呼びかけに応じ、原告らは、それぞれ別表のとおりの内容で、被告に対し「正本堂建立御供養」名義で各金員を交付した。

(2)  その後昭和四七年一一月一五日、原告松本とみ子、同松本勝弥は被告により、被告創価学会からの除名処分をうけた。他の原告らも、本件訴訟を起した昭和四八年三月二日の直後被告から、除名処分を受けた。

(3)  原告らは、右のとおり、被告の会員でなくなったので、原告らが被告創価学会の会員であることに基づいて出捐した本件各寄付金についても、原告らに返還されるべきであって、被告には原告らの退会とともに右金員を所有する法律上の原因は、失われたのであるから、被告は原告らに右各金員を返還する義務がある。

(七)  よって、原告らは被告に対し、それぞれ別表記載の各寄付金額およびこれに対する右寄付をした最終日の翌日である昭和四〇年一〇月一三日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する被告の認否

(一)  請求原因(一)の事実は認める。

(二)  同(二)の事実中、原告らが主張の年月日に同主張の名義で、同主張の金額を供養金として出捐した事実及びそれが正本堂の建設資金にあてられる趣旨であったことは認めるが、その余の事実は否認する。

正本堂の意義については、広宣流布達成のときに「事の戒壇」となる建物という意味で、「事実上の」又は「実質的な」「事の戒壇」という意義づけをしていたものであり、「事の戒壇」そのものという意義づけをしたことはない。

(三)  同(三)の事実は否認する。

(四)  同(四)は争う。

(五)  同(五)のうち(1)(2)において引用された被告の表示内容は認めるが、その余は争う。ある宗派の信仰の対象ないし本尊に関し、異宗派からためにする偽作説の流布されることは決して異とするに足りない。日蓮正宗についてもその例外ではなく、原告ら主張の板本尊偽作説は、文献として残っているものは、遠く明治初年頃に遡ることができて、本件供養の前後に事新しく提起されたものではない。しかし、強固な信仰心を堅持する被告幹部らは、もとよりこのような妄説を一笑に付して今日に及んでいる次第である。

(六)  同(六)(七)は争う。

三  被告の主張

(一)  本案前の抗弁

(1) 原告ら主張の錯誤の内容は、本尊が偽作であること及び正本堂が「事の戒壇」ではなく、広宣流布達成の時でないことの二点であるが、右はいずれも日蓮正宗の信仰の本質に関するものであって、裁判所はこれらに干渉する権限がなく(憲法二〇条、宗教法人法八五条)、右二点に関する判断を経なければ、原告らの請求の当否を判断し得ないものであるから、原告らは結局裁判所に対し不能を強いるものであり、訴訟の前提問題としても裁判所の審査権限の外にある。

(2) また、宗教上の信仰対象の真否、教義の解釈説明、堂宇の意義等に関する争は、法令の適用によって解決するに適さないものであり、たとえ前提問題としても本来裁判所の審判を受けるべき事柄ではない(裁判所法三条)。したがって、原告らの本訴請求は不適法として却下を免れない。

(二)  訴訟法上の瑕疵

請求原因(五)、(六)の主張は、準備手続要約調書訴状及び準備手続終結前に提出された準備書面のいずれにも記載がない新たな主張であり、民訴法二五五条一項但書のいずれにも該当しないから、従前の訴訟経過に照らし、原告らの右主張は著しく訴訟を遅滞させることが明白であって、原告らはこれを本件口頭弁論において主張することができない。

(三)  本案についての主張

(1) 本案前の抗弁で述べたところと同一の理由により請求棄却を免れない。

(2) 本件金銭の出捐は、法律行為ではなく宗教上の意義を目的とした供養であり、裁判上訴求できるような債権関係は発生しない。強いて言えば「喜捨」という言葉もあるごとく供養者の側の所有権放棄と受領者の側の原始取得とから成立つ事実行為の範疇に属し、民法九五条その他の条項が適用される余地はない。

(3) 原告らの主張する錯誤の内容は、いずれも宗教的価値判断に関し、かつ精神的主観的立場によって評価を異にする内容を含んでおり、このような事柄は本来錯誤の対象となる法律行為の要素とはなり得ないものである。

(4) 仮りに原告らの本件出捐が法律行為であったとしても、そこには要素の錯誤は存在しない。

すなわち、本件出捐は仏法僧に対する宗教上の意義を有する供養であって、その出捐が正本堂建立に使用されることは要素外の期待ないし希望に過ぎないと解すべきであるが、一歩を譲って正本堂建立という目的までも要素に含まれていたと解しても、正本堂が建立され、そこに原告ら主張の本尊が安置された現在、本件においては表示された意思と内心の意思との間になんらの錯誤も存しない。

また仮りに、正本堂建立が広宣流布達成の時期にあたることが表示された動機であって、本件供養にとって重要な要素であるとしても、広宣流布であるか否かは純粋に宗教教義上の評価、意義づけの問題であって、客観的事実に関する認識の問題ではないから錯誤を論ずる余地はない。

四  被告の主張に対する原告らの反論

(一)  争う。

(1) 本件は寄付金返還請求権を内容とする単純な財産法上の紛争である。すなわち、原告らの寄付行為は、広宣流布の際に戒壇の本尊すなわち「板まんだら」を安置するための正本堂建立費用にあてることを目的としてなされたものである。そして右寄付行為が錯誤により無効であるか否かの判断は、原告らの動機を含めた意思表示の内容と内心の意思との間にくいちがいがあるか否か、更に被告が募金の際右寄付行為の動機となるような事実を表示して募金したかどうかの通常の事実認定の問題であり、被告の主張するような信仰上の立場如何にかかわる問題ではないので、裁判所に対し不能を強いるものではなく、本件訴は適法である。

(2) また本件は、宗教上の信仰対象の真否、教義の解釈説明、堂宇の意義等に関する争ではない。

「板まんだら」の真偽についても原告らは、被告が信仰対象を、「日蓮が弘安二年一〇月一二日に建立した本尊」(被告の規則三条)と定めているのに、被告が正本堂に現実に安置した「板まんだら」は、右のような「板まんだら」ではないと主張しているに過ぎない。したがって、右は信仰をはなれた事実認定の問題である。

(二)  (二)(三)の主張は争う。

(三)  本件寄付行為は、被告が原告らに対してなした一定の目的による募金の意思表示に応じてなした金銭の出捐であって、無償契約たる贈与である。

原告の錯誤の内容は、いずれも宗教的価値判断に関するものでもなく、精神的主観的立場によって評価を異にする内容を含んでいないことはきわめて明らかである。

なお、正本堂が建立されたことは認めるが、そこに安置された本尊は、被告の本尊とする「日蓮が弘安二年一〇月一二日建立した本尊」ではないのであるから、表示された意思と内心の意思との間に錯誤が存在することは明らかである。

更に広宣流布達成の時期についても、募金前に被告がした表示と正本堂建立直前に被告がした表示との間にくいちがいがあったかどうかの事実認定の問題であって、宗教教義上の評価、意義づけの問題ではない。

第三証拠≪省略≫

理由

一  まず、被告主張の本案前の抗弁について判断する。

原告らの本位的主張は、要するに、原告らがした寄付行為は、被告が広宣流布達成の時に本尊すなわち「板まんだら」を安置するための「事の戒壇」たる正本堂建立費用にあてることを目的として金銭を寄付したところ、本尊である「板まんだら」は偽物であり、正本堂は「事の戒壇」でなく広宣流布達成の時でないことが判明し、出捐の目的たる重要な要素に錯誤があったから、寄付金の返還を求める、というにある。

そこで本件で争われているところが、被告主張のように単に宗教上の見解の争いに過ぎず、裁判所が判断すべき法律上の争訟にあたらないものかどうかについて考察する。

裁判所法三条一項は、裁判所は、憲法に特別の定めのある場合を除き、一切の法律上の争訟を裁判する旨定めている。ここで法律上の争訟とは、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、法令の適用により終局的に解決しうべきものをいい(最高裁昭和二九年二月一一日判決民集八巻二号一九頁、同昭和四一年二月八日判決民集二〇巻二号一九六頁参照)、社会に生起するあらゆる紛争を意味するものではなく、司法権に対する一定の限界が存することは異論がない。

ところで、宗教上の紛争と法律上の争訟とは常に必ずしも二律背反の関係に立ち、したがって相互に排斥しあう概念ではない。宗教上の紛争であっても、たとえば宗教団体内部の役職員の地位に関する争いのように、その争いの実質が単に党派的利害の対立に過ぎないとみられるときなどは、一般の団体組織における内紛の場合と全く同様に、法的紛争として裁判所がこれに法律判断を加えることは妨げない。しかし、同じく宗教団体の内紛であっても、教義をめぐる対立や宗教的信念の争いに基づく抗争など、紛争の核心がすぐれて宗教的な争いである場合は、あたかも学問上の見解の対立や政治的論争に関する場合と同じく、法的規制に親しみがたく、裁判所の法律による判断は何ら終局的解決をもたらすのではない。かかる場合には、裁判所はこれに介入することを差し控え、宗教団体内部の自由な議論に委せた方が、信教の自由を保障し、国家と宗教との分離を規定した憲法二〇条の趣旨に沿うものというべきである。そうすると、宗教上の紛争に対する国家裁判権の介入の是非を判定するための一応の基準としては、前者のように宗教団体の組織に関する一般社会生活の面と共通の争いに重点があるのか、それとも、後者のように通常の社会生活の面とは異なる内心の信仰に直接かかわる面に重点があるのか、という観点を設定することができ、前者の場合には国家の裁判権が及ぶことを認め、後者の場合にはそれを否定するということになる。

そこで、右のような一応の基準をふまえて本件訴訟がいずれの性格を帯有するかについて検討する。原告らが本件寄付当時いずれも被告創価学会の会員であったこと、被告創価学会は「日蓮聖人が弘安二年一〇月一二日に建立された一閻浮提総与の大本尊」すなわち「板まんだら」を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき本尊流布並びに儀式行事を行ない、王仏冥合の理想実現のための業務を行なうことを目的として宗教法人法により設立された宗教法人であることは当事者間に争いがない。そして、原告らが錯誤の内容として主張するところの、被告の本尊である「板まんだら」の真偽に関することは、日蓮正宗の信徒、被告会員の信仰の根底である宗教上の崇敬対象の真否に関する問題であり、また、正本堂が広宣流布(日蓮の三大秘法の仏法が日本国中さらに全世界に弘まること)達成の時に建立される「事の戒壇」に当るかどうかということは、日蓮正宗の教義の解釈、堂宇の意義説明に関することであって純粋に宗教教義上の評価、意義づけの問題であることは、前記争いのない事実並びに弁論の全趣旨により明らかである。かかる宗教上の本質である信仰対象の真否や宗教上解決すべき教義の問題は、内心の信仰に直接かかわるものというべきであり、裁判所が法令を適用して終局的に解決できる事柄ではない。そうだとすると、本件の争点は、いずれも純然たる宗教上の争いであって裁判所が審判すべき法律上の争訟とは到底いい得ない。

この理は、純然たる宗教上の争いが確認訴訟の訴訟物として訴訟に上程され、既判力をもって確定される場合に限らず、本件のごとく給付訴訟の前提問題として主張され、判決理由中の判断となるに過ぎない場合であっても同様であって、ひとしく裁判所の審判権の外にあるものといわなければならない(最高裁昭和三五年六月八日判決民集一四巻七号一二〇六頁参照)。

したがって、原告らの本位的主張は既にこの点において失当というべきである。

二  次に原告ら主張の仮定的主張が訴訟法上許されるか否かについて考える。

原告らの前記本位的主張については、昭和四七年一一月一一日に九六七二号事件、昭和四八年三月二日に一五六五号事件の訴状が提出され、いずれも直ちに併合のうえ準備手続に付され、その後約二年経過して錯誤の内容を前記二点に主張整理されたうえ昭和五〇年三月三日に準備手続が終結されたものであるところ同年四月二八日の口頭弁論期日において新たに仮定的主張がなされ、右主張が従前の訴状及び準備書面に記載のなかった事項であることは、本件訴訟の経緯に徴して明らかである。してみると、原告らの新たな主張は、いずれも容易に主張し得たものであって、これを審理すれば著しく訴訟を遅滞させることは明白であり、また原告らにおいて重大な過失なくして準備手続にこれを提出し得なかったことの疎明もないから、右主張は民訴法二五五条一項によりこれを却下すべきである。

三  以上の次第で、原告らの本件訴は、その余の判断をするまでもなくこれを不適法として却下するを相当とし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 土田勇 裁判官 飯田敏彦 裁判官宮岡章は職務代行を解かれたため署名捺印できない。裁判長裁判官 土田勇)

<以下省略>

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